水底を蹴るために深く沈んで

ありふれた孤独と創作の記録。

たとえば手首を切るみたいに

文章を書くことが苦痛だ。

書いている時間より、白紙のノートに向き合っている時間の方が多い。

本を読むことも苦手だ。同じ本を何年も、最初の方のページを読んでは読むのをやめて、また最初から読み始めるを繰り返している。

小説を書くのは、わたしにとってリストカットのようなもので、痛い、苦しい、が、大半を占めているのに、そのときだけはだれかが自分を見てくれる、褒めてくれる、認めてくれる、だから続けるってこと。

わたしには才能がある。

書けばみんな褒めてくれる。

辛くてもいいし、死んだっていい。ただ、自分が自分でいられて、生きている実感が欲しい。

息をするだけで、みんなに認められる世界なら、わたしは小説を書かなかった。生きてるだけで素晴らしいなら、今はこんなに息苦しくはない。世界はそんなに優しくない。

水底を蹴るために深く沈んで

ながいこと、空が白むころに布団のなかで眠って、夕方に起き出す生活が続いている。起きていても頭は回らず、創作活動は進まない。3日くらいシャワーを浴びていない。自堕落な身体と、相反する心のなかの焦燥感が喧嘩して、蜘蛛の糸に絡めて取られたような不自由が、日常に張り付いている。何もしなくても、時間は過ぎていく。一日が終わって、一日分死に近く。SNSスマホの動画を眺めたりしているときの束の間の現実逃避は、麻薬のように感じる。一時不安を忘れさせてくれる代わりに、時間がハイスピードで過ぎていく。その分早く死に近く気がする。人生の無駄遣い。眠っている時間も同じだ。意識が自分の手のなかに無くて、時間を忘れさせてくれる状態というのは、休息や息抜きという場合には必要かもしれないが、それが日常の大半を占め始めたら、危ない。脳に電極を差し込まれたマウスのように、生きながらに死んでいるみたいだ。

こんな思考に至るのは、今が上手くいってないからだと思う。わたしは病的に浮き沈みの激しい人間だ。ハイなときは、すべてを忘れて、いかなる恐怖心も持たず、ただ行動する。ローなときは、自分を見つめて、自己嫌悪に陥って死にたくなる。後者の時間が案外大切だったりもする。上手くいかないときは、自分を見つめ直すいい機会だ。

このブログは、主に自分を見つめ直す記録にしたいと思う。大した価値のない、ただ自分の心の整理のために書く文章だ。テーマも物語性もなく、ただ生きるために書いていこうと思う。